LOGIN昇降口が近付いてくると、先輩はくるりと回り手を振る。
「じゃあ、ボク向こうだから。また会おうね凛ちゃん!」
そう言って3年生の下駄箱の方へ走って行くけど、いきなり何も無い場所で転んだ。慌てて駆け寄り、助け起こすと額を擦りむいていた。
「先輩、大丈夫ですか? ああ、こすらないで。ちょっと待っててください」
私は昇降口の脇にある手洗い場へと走り、ハンカチを濡らすと取って返す。先輩はズボンをはたきながら、立ち上がっている。周囲には沢山の生徒がいるのに、誰も手を貸そうとしていない事に、少しのイラ立ちを覚えた。
「先輩、お待たせしました。傷口に砂が入り込むと危ないので、落としますね」
ぬるいハンカチで額を洗い、鞄から絆創膏を取り出して貼り付けた。
「本当は消毒もした方がいいんですが、持っていなくて。後で保健室に行ってくださいね。他に痛む所はありませんか?」
あちこちと触る私に、先輩は声を上げて笑う。
「くすぐったいよ凛ちゃん! 大丈夫、おデコだけだよ。ごめんね、ハンカチ汚しちゃって。洗って返すから、ちょうだい」
断る隙もなく、さっとハンカチに手が伸び、持っていかれてしまった。
「そんな、いいですよ。ハンカチくらい、いくらでもありますから……!」
取り返そうとしたけど、先輩は既に手の届かない場所まで遠のいていた。
(うそ……足速い)
私は剣道部だ。走り込みも毎日している。身長も私の方が高いし、体力だってあると思ったのに、全然追いつけない。
そうこうする内に、先輩は素早く上履きを取り出し、裸足で廊下を走っていく。
「ダメだよーだ。お礼はちゃんとしなきゃだもん。これで会う口実もできるし、返しませーん。ほら、予鈴鳴ってるよ! 凛ちゃんも教室行かないと、遅刻になっちゃう」
その言葉を残して、先輩は階段を駆け上っていった。確かに予鈴が鳴っているし、諦めるしかないか。
ふぅ、と溜息を吐いて振り返ると、眞鍋さんが青い顔で近付いてくる。どうしたのかと思っていると、他の人も同じ反応だった。
「どうしたの、眞鍋さん。顔色悪いよ? 保健室行く?」
心配する私の腕にしがみつき、眞鍋さんは声を潜め、先輩が去っていった方を気にしながら囁いた。
「凛くん、あの人に近付くのはやめた方がいいよ。ヤバい人なんだから!」
私は意味が分からず首を傾げる。
「どうして? ヤバいって……全然そんな感じじゃなかったじゃない。気にしすぎだよ」
あんなに可愛いのに、何がヤバいのか本当に分からない。少しそそっかしくて、目が離せない人だった。理由を聞いても、眞鍋さんは口ごもっている。周囲を見回しても、みんな同じ顔をしていた。
少し暗い雰囲気の中、本鈴が響く。
「ほら、急がないとホームルーム始まるよ。みんなも、行こう?」
そう促し、駆け足で教室に向かった。
一目散に逃げだした私達は、必死に教室を目指す。「凛ちゃん! なんで逃げるの!?」「由香里ちゃん! 待って!」 背後から迫る声に熱いはずの身体が冷えていく。「ちょ、なんで私まで!?」 由香里ちゃんは背が小さいから、足がもつれそうになっている。私は思い切って由香里ちゃんを抱き上げ、そのまま走った。 肺が痛いくらいに荒い息を吐く。「凜くん……!? 降ろして! たぶん私より凜くんの方が危険だよ!」 心配する由香里ちゃんに小さく笑って答えた。「大丈夫、無駄に鍛えてないよ。今こそ『王子様』を発揮するシーンじゃない?」 私は初めて、自分から『王子様』を選んだ。剣道部で鍛えているんだから、小柄な由香里ちゃんくらいなら軽い。 背後からは、相変わらずふたりの声が追ってくる。瀬戸先輩は足が速いし、日下先輩は身長から言っても歩幅が広い。追いつかれるのも時間の問題だ。 迫ってくる声を振り切り、走りに走って教室まで辿り着くと、倒れるようにして由香里ちゃんを降ろし、引き戸を開き駆け込んだ。大きな音を立てて閉めると、背中をもたれて肩で荒い息を吐く。「凜くん! 大丈夫!?」 声が出せずに頷いて応えると、教室の視線が集まっていることに気づく。教壇にいた江崎先生が、ホッとしたように声をかけてきた。「ああ、ふたりとも……どうやら無事みたいだね。心配してたんだよ。まぁ、追ってくるとは思うけど、僕がバリケードになるから、席について息を整えて」 あれだけの騒動を起こしたんだから、クラスのみんなも口々に心配してくれて、由香里ちゃんに支えられながら席につくと、ぱたりと突っ伏した。「ごめんね、私のせいで……お水、飲む?」 由香里ちゃんが差し出したペットボトルを受け取り、小さく笑う。「ありがと……由香里ちゃんのせいじゃないよ。そもそも瀬戸先輩が事の発端だし……」 そう言いながら水を口にしようとした、その時。 バタバタと足音が響き渡り、
「私がいつアンタのカノジョになったのよ!?」 由香里ちゃんが食ってかかると、日下先輩は声音をコロッと変えて甘く囁く。「えー? 俺は本気だよ? ちっちゃくて、華奢で……なのに柔らかそうで……可愛い」 聞いているこっちが恥ずかしくなるようなセリフに、由香里ちゃんは悲鳴を上げた。「ぎゃーーーーっ! キモっ! 初対面でそんなこと言うとか、どんだけ飢えてんの!?」 そんな対応をされても、日下先輩は可愛いと繰り返す。 なんだろ……瀬戸先輩とは違う厄介さかも……。 そこに、苛立たし気な瀬戸先輩の声が低く響く。「うるっせーな、乳繰り合うなら他所行けよ。俺は凜ちゃんがいればそれでいいんだから。さっさとどけ、淫乱女」 その一言で空気が変わった。「せとっち……それは聞き捨てならないな。彼女がそんな子じゃないことくらい、お前も分かってんじゃねーの? 新堂さんを守ったのも見たし、そんな尻軽な子が、こんな反応する訳ないじゃない」 日下先輩の口調は穏やかだけど、まさに地の底を這うような重低音で瀬戸先輩に対峙する。 瀬戸先輩も、更に口調が荒くなっていく。「はっ、単にお前がそう思いたいだけだろ? この女は実際に凜ちゃんを『オウジサマ』としてしか見てなかったんだぞ? 他人に勝手な役割を与えて悦にいてるようなの、俺はごめんだね」 その言葉に、由香里ちゃんがぐっと呻く。確かに、それは的を射ている。だけどもう和解済みだし、初めての親友だ。反論しようとすると、それより先に日下先輩が前に出た。「だからさー、今この状況が見えてないの? 由香里ちゃんは新堂さんを庇ってるし、新堂さんも信頼してるでしょうが。やだねー、嫉妬に狂ったお子様は」 身長差があるふたりが睨み合い、場は混沌と化す。「凜ちゃんには俺がいればいいんだよ。他の雑魚なんざ知ったことか。雑魚同士、引っ込んでろっつーのが分かんねーかなぁ」 日下先輩とはかなりの体格差なのに、瀬戸先輩は一歩も引かない。(これ……どうしたら……) なんとか収め
日下先輩と由香里ちゃんが、必死に瀬戸先輩を制止してくれている後ろで、私は暗がりで体を丸めていた。 瀬戸先輩とはちゃんと向き合いたいけど、急展開過ぎて頭がついていけない。だって、お互いが知らない状態で出会って3日、それから幼稚園の頃を思い出した翌日にこの騒ぎなんだもの。 おまけにあの二面性。 混乱するなという方が無理。 由香里ちゃんがいてくれて、ほんとによかった。 そんなことを考えている間にも、背後では押し問答が続いている。「どけっつってんだろ。俺は凜ちゃんに用があるんだよ」 瀬戸先輩のよく通る声が、私の元にも届く。それだけで心臓が痛いくらいに鳴っていた。嫌でもさっきのキスが思い出されて、身体が熱くなってしまう。「ですから! 凜くんに少し時間を上げてくださいてば! 混乱してるんですよ、瀬戸先輩の行動が急すぎて、オーバーヒートしてるんです。今会っても、まともに話なんてできませんて!」 由香里ちゃんの必死な声に、日下先輩も続く。「そうだよ、お前もそれは分かってるんだろ? さっきの新堂さん、びっくりしてたじゃんか。お前、ちゃんと告白とか、付き合おうとか言ったの?」 その言葉に、瀬戸先輩の声が重なった。「当たり前だろ。思い出したことも伝えたし、凜ちゃんだって俺が好きだって言ったんだぞ。 言ってない! 確かにそういう雰囲気にはなったけども! 口にはしなかったものの、私の気持ちは筒抜けなのだろう。 瀬戸先輩のなかでは既に相思相愛になっているっぽい。 それが嫌じゃないから余計に質が悪いったら。 素直に言えれば、可愛いのかもしれない。でも今更過ぎて、どうすればいいかさえ分からなかった。 長年培ってきた『王子様』は、なんの役にも立たず、ただ友達の背中に隠れているだけなんて、正直情けないと思う。 思わず溜息が零れると、何やら背後の様子がおかしくなってきた。「お前、凜ちゃんの友達面してっけど、こないだ揉めてた奴だろ? でしゃばんじゃねーよ」
「噂?」 日下先輩は首を傾げて問いかける。由香里ちゃんは、そんな先輩を胡散臭げに見上げる。「知らない訳ないですよね? あんた達みたいな連中が好きそうなネタだもの。誰にでも股を広げる淫乱女の眞鍋由香里ですよ」 そんな言葉に、日下先輩はきょとんとした後、ポンと手を打った。「ああ~、聞いたことある。あれって君のことなんだ。でも……そうは見えないよ? 逆に貞操固そうに見えるんだけどな」 意外な反応に、私は思わず『おお』と声が漏れる。だけど由香里ちゃんは違うようだった。「はっ、自分は分かってますよ~って? そういう人の方が信用ならないっての」 ふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向く。 私はヒヤヒヤしながら見ていたけど、日下先輩本人はにこやかに笑っていた。「うんうん、警戒心が強い所も唆るね。まじで惚れそうなんだけど」 でも由香里ちゃんは苛立ちながら口を尖らせる。「うっさいな……めんどくさ。ってか、それより話ってなに? 凜くんのことじゃないの?」 いつのまにかタメ口で対応している由香里ちゃんにも、日下先輩は気にした風でもなく思い出しように私に視線を向けた。「おっと、そうだった。新堂さん、昨日俺と会ったのは覚えてるかな?」 その問いかけに、私はこくりと頷く。「はい。瀬戸先輩と一緒にいた方ですよね。あと、他にも3人いたかと……」 私の勘違いで瀬戸先輩に絡んでいると思っていた、チャラそうな赤髪と、金髪、ピアスをジャラジャラと付けた小柄な男子。そして日下先輩。確かに本人が言うように他の3人を止めていた。さっきも、真っ先に瀬戸先輩を止めに入ってたし。 そういう部分では信頼できると、私は感じた。由香里ちゃんも、その点は評価しているみたいで何も言わない。私達の反応に、日下先輩も安心したように微笑む。「うん、そうだよ。他の3人は今日来てないみたいでね、俺があの場に居合わせてホントによかったよ」 日下先輩は眉を垂れながら、力なく笑う。「んでね、昨日あそこで話してたのが君のことだったん
「あの……トラウマって、なんなんですか……?」 おずおずと口を開くと、日下先輩は肩をすくめた。「それが、俺も教えてもらえなくてさ。でも記憶を消すくらいだから、相当なものだとは思うよ?」 由香里ちゃんも思案しながら頷いた。「それに、凜くんにも教えないってなると、もしかしたら凜くんに関わりがあることなのかもしれない」 思わぬ言葉に、私は息を呑んだ。「私が……先輩のトラウマ……?」 それは衝撃的で、だけどあり得ない話ではなかった。 幼稚園を卒園した後だし、何より私を忘れていたのだから。 日下先輩も首を傾げ、由香里ちゃんの言葉を反芻する。「ん……確かに。俺が聞いた時も、なんか辛そうっていうか……苦しそうだったんだよね。まぁ、トラウマってそういうものだとは思うけど、それだけじゃない感じはした」 そして由香里ちゃんに手を伸ばす。「君って頭の回転も速そうだね。いや、マジでいいわ」 その手を容赦なく叩き落し、腕を組んで日下先輩を睨み上げた。「触んなってんですよ。あんた誑しっしょ? ある意味、瀬戸先輩より質悪いわ」 日下先輩はそれすら楽しそうに笑う。「あ~それよく言われる。そんなつもりないんだけどな。俺、好きな子には愛情表現を惜しまないだけだよ?」 さらっと告白めいた言葉を口にする日下先輩に、私の方が赤面してしまった。 だけど、当の由香里ちゃんには響いていないように見える。「物は言いようですね。ただのナンパ野郎じゃないですか。お呼びじゃないんで、用が済んだらさっさとどっか行ってください。そのガタイじゃ目立つっての」 確かに、日下先輩は背が高くてよく目立つ。これじゃあ隠れている意味が……。 そう考えた時、日下先輩の背後にゆらりと影が現れる。「凜ちゃん、みーつけたー」 まるでかくれんぼの鬼のような言葉に、ぞくりと背中が粟立つ。日下先輩がゆっくりと振り向くと、にっこりと笑う瀬戸先輩が立っていた。
「よかった、先に見つけられた!」 荒い息を吐きながら、突然知らない男性が資材置き場に飛び込んできた。由香里ちゃんが私を庇うようにして前に出る。私はその行動に息を飲んだ。今まで庇うことはあっても、庇われることなんてなかったから。 由香里ちゃんの気遣いが嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。「……確か、日下先輩ですよね? 瀬戸先輩と仲がいい……凜くんに何か用ですか?」 由香里ちゃんは声を落として問いかける。それに男性、日下先輩は慌てて首を横に振った。「ち、違うって! 俺はどっちかって言うとストッパーなんだよ! さっきは俺のせとっちがごめんね。少し話を聞いてくれないかな?」 由香里ちゃんは警戒を解かずに、ちらりと私へ視線を向ける。瀬戸先輩の友達なら、なぜあんな行動に出たのか分かるかもしれない。きゅっと胸元で拳を握り、由香里ちゃんに小さく頷いた。 由香里ちゃんも頷いて、日下先輩に向き直る。「話って、なんですか?」 その言葉に日下先輩はほっとしたように、大きな肩から力を抜いてにこりと笑う。「えっと……君はさっき新堂さんを助けた子だよね? ひとりじゃなくてホントに良かったよ。俺が言うのも変だけど、ありがとね」 そう言って、ポンと頭を撫でる。それはあまりにも自然で、私が初めて見る生の頭ポンに少し興奮していると、由香里ちゃんは不快を隠そうともせず、その手を叩き落とした。「気安く触んねーでください」 一瞬。 その場に沈黙が落ちた。「え……由香里ちゃん……?」 こんな物言いの彼女は見たことがなくて、若干頬がひきつる。日下先輩もぽかんとして由香里ちゃんを見つめていた。 でも、次の瞬間にはぷっと吹き出し、ぐしゃぐしゃと由香里ちゃんの髪を撫で回す。「ちょ、やめ……!!」 無遠慮に撫でられ、綺麗にセットされていた髪はぐしゃぐしゃだ。「君、いいね。名前なんていうの? 彼氏はいないのかな? 俺立候補していい?」 いきなり口説き出した日下先輩に、由香里ちゃんの表情が剣







